「誰一人取り残さない社会」って? と、ハイジの幸せのこと

最近よく耳にする「誰一人取り残さない社会」という言葉。
とてもやさしく、正しいことを言っているように聞こえのですが、
私は、少しだけ引っかかる気持ちになります。
それを聞くたびに、
「その“取り残されている”という基準は、誰が決めているの?」
と心がざわざわするのです。
「取り残さない」という言葉がつくる前提
「取り残さない」と言うとき、
その言葉の外側に
「今、この社会の基準から外れている人がいる」
という、発信者側の勝手な思い込みが含まれているように感じます。
もちろん、社会の中で困りごとを抱えている人がいることは事実で、
支援や配慮が必要な場面もたくさんあります。
でも、発信者が考える幸せな状態にみんながならなくてはいけないのか?
“幸せの形まで同じにしようとしていないか”
という疑問が湧いてくるのです。
ハイジは「取り残されている子」?
たとえば、『アルプスの少女ハイジ』のハイジ。
今の社会の基準で見ると、
学校にも通っていない、文字も十分に読めない、
都市的な生活からは遠い場所で暮らして、風変わりなおじいさんに育てられている子です。
そう考えると、ハイジは「誰一人取り残さない社会」の基準から見ると
「取り残されている子」と見なされてしまうかもしれません。
でも、ハイジ自身はどうでしょうか。
アルプスの山を駆け回り、ヤギたちと過ごし、
澄んだ空気と光の中で生きているハイジは、
とても生き生きとしていて、幸せそうです。
取り残されていると考える人たちに、大好きなおじいさんと離され、
アルプスから遠く離れた都会につれてこられたハイジは、
本当に幸せだったでしょうか。
綺麗な服を着て、温かなベットがあり、柔らかい美味しいパンのある食事。
そして、充実した教育を受けることができる環境。
それらを与えられたのにも関わらず、ハイジは幸せを感じることはできませんでした。
基礎は大切。でも、その先は…
もちろん、読み書きができないことで困る場面が
現代にはたくさんあります。
生きていくための基礎的な学びや選択肢を
用意することは大切だと思います。
ただ、それと同時に思うのです。
その人がすでに持っている幸せまで、
「正しい形」に塗り替える必要はあるのだろうかと。
「取り残さない」という言葉が、
知らないうちに
“その人の幸せを奪うこと”
になってしまうとしたら、
それはとても危ういことだと思います。
幸せの基準は、自分で決めていい
人によって、心地よい場所も、速度も、
安心できる世界も違います。
誰かが決めた基準に収まらなくてもいい。
幸せの基準は、自分で決めていい。
それは、
「自分は自分でいい」と
潔く引き受けること。
最後に
「誰一人取り残さない社会」という言葉が、
誰かを思いやる気持ちから生まれたものであることは、
きっと間違いありません。
でも同時に、
その言葉が
“違いを消してしまう方向”に使われていないか
ときどき問い直してみたいのです。
取り残さないことよりも、
その人がどこで、どんなふうに生きているときに
いちばん自然でいられるのか、幸せなのか。
そんな視点も、
そっと大切にしていけたらいいなと思います。











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